「笑いのレベルが高いから、少々のことで笑わない」
そうなのか?うーん。名言か?はたまた迷言か?小学生か中学生のあたりで思っていたと書いている。
島田紳助、松本人志の「哲学」という本をほんの少しだけ読み進めた。
自分も使う言葉で、「〜かもしれない、〜だろう」
これは志村流を読み始めたときにも感じたことだが、書きながら考えていているわけで、自身を改めて見つめる場合に陥りやすい。考え終わってから書く物書きのプロとは違うな。
紳助を見て、
「これならおれでも出来る」と思いお笑いをした。というのは、西村京太郎が、アガサ・クリスティをみて(松本清張だったか記憶があやふやだが)、
「これなら僕でも書けるかもしれない」と思い小説を書き始めた。という話に似ている。
そういった「憧れ」に位置する人を目の前にすると、
「お前、おれを手本にしたやろう?」のような、心の奥を見透かされたような(腹を見透かす。といったほうが正しいか)威圧感で萎縮してしまうと思う。
紳助は笑いを分析してきた。と何かで言っていたが(やり方が普通の人とは違うか、もしくはうまく取り入れた)、出来上がったそれを、真似してみたのが松本人志とすると、敵わないなぁとなるのも無理はない。
紳助はお笑いの先人の足りない部分や、未開の地のようなところを見つけた人なんだろうから、単に真似したのとは訳が違うね。だから、真似から入り、足らないところを追加した後に、その足りないと感じた方で勝負すると、「兎と亀」の兎になれるんじゃないかな。そして、亀のように辛抱強く続けると大成する可能性がある。
一発屋は兎のように始めるが、兎のようにやめるのようなことを志村流で書いてたが、折角、人より先に見つけた居場所を、留守にしている間に亀に取られたら、後の祭りになるのは目に見えているよな。特許みたいなもんだが、これも書いてたっけか。
紳助は笑いを追求し、極めたのだろう。
この哲学という本は、二千二年に刊行された本だから、今の松本人志は気づきがあるかもしれないね。
「今だから言える、あの番組をやって良かった」と、その時がこの本を出す最適なタイミングといえる。ちょいと早過ぎた、未だ自身をわかってないのでは?と、思いながら続きを読む。